VOCALOID小説サイト『黄昏の歌』の別館です。 健全な表と違い、こちらはBL・及びR指定腐向けです。 読んで気分を害されたなどのクレームはお受けできませんのでご了承ください。 閲覧は自己責任でお願いします
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【アカマター御嶽】
くにぐにのあんじべ大やくもいた千人のさとぬ
しべげらへあくかべこくよる上下おくとより上
長虹堤のすぐ側にあるイベガマ(洞穴)からミセゼル(祝詞)が聞こえてくる。
琉球の特徴的な節回しの詠み方はまるで歌を歌っているかのように聞こえて耳に心地よい。
荘厳なミセゼルは揺るぎないアルトの音域で絶え間なく続く。
琉球の女性は大抵ソプラノだが、アルトの声が紡ぐミセゼルの力を知っている民衆はありがたいと手を合わせた。
アカマター御嶽から逃げ帰るようにイベガマにこもった真百合は一心にミセゼルを唱え続けた。
(風の神よ、疫病の元を払い給え 海の神よ、悪しきものからわれらを守りたまえ)
アカマター御嶽の空を飛んでいたのは間違えなくヨーラー(カラス)だった。今まで見るのも珍しくなっていたヨーラーが戻ってきたということは、アカマターがまたマジムンとして復活した事を意味する。
すでに事後対策として村の若い者に、安謝湊で禊をするように伝えた。
マジムンは清い海水が苦手だ。安謝湊は罪人の処刑地でもあったが、流れた血もあっという間に綺麗に透きとおった海に戻る。それ故、安謝湊は罪人の罪さえも洗い流し、魂をグソー(あの世)へと送ると考えられていた。禊にこれほどふさわしい場所はない。
ミセゼルを唱え終わると、真百合は土地の神の力と天の神の力と海の神の力が織物のように重なりあって、国土を緩やかに包んでいくのを感じた。
間に合ったとみえて真百合はほっと息をつく。
同時にアカマター御嶽に残り、大胆にもマジムンを退治するなどと豪語したあの日本人の覡が気にかかった。
本土の祭礼のことはあまり詳しくは知らない。彼らがどれだけの力を持っているかも定かではないが、琉球においても神は天の絶対神と森羅万象で形成されている。それらに反旗を翻すなど命がけでさえ成し遂げられるか分からない。
ましてや相手は真百合のオバアであった真茱萸でさえ退治できなかったアカマターだ。
真茱萸のセヂ(霊力)に到底及ばない真百合が行っても助けにならないことは明らかだった。
後ろ髪を引かれる思いを抱えたまま、真百合はイベガマを後にした。
アカマター御嶽でマジムンを迎え撃つことにした勇馬だが、肝心のマジムンは一向に姿を見せなかった。
それどころか小さい蛇でさえもが見当たらない。
すでに御嶽の中には稲荷神社の魔除け札を貼り付けてある。
悪霊ならたまらず飛び出てくるはずだったが、一向にその様子は見えない。
(まさか、札を貼っただけで調伏してしまったとか?)
鷹揚な琉球人のことだ、ちっぽけな悪霊にも大騒ぎしてしまった可能性もありうる。
しかし、その考えはやはり打ち消した。
魔除け札は悪霊に触れれば何かしら反応を示す。魔除け札は未だ何も反応を見せてはいなかった。
もうすでにここを飛び出して街の方へ行ってしまったのだろうか。もし、そうだとしたら帰ってきた所を返り討ちにしたほうがやりやすいだろう。
頭ではそんな夢想を思い描いていた勇馬だが、内心震えてもいた。
去り際に真百合が言ったとおり、本当に琉球でそんな化物みたいな神の眷属が生き残っているとしたら自信がない。
確かに日本でもまだ妖かしはいるが、妖かし自体が見えなくなった人も増えて神社に寄せられる相談も昔ほど多くはない。数少ない相談でも大半は妖かしの仕業に見せたい人の小芝居だった。
勇馬は子供の頃から妖かしや神の眷属を目にすることが出来た。子供の頃に伏見稲荷から遊び出た御使狐に目を留めて、一緒に遊んで後を追いかけて伏見稲荷の神社、それも参拝客は入れない本殿の祭壇床下から出てきたから神主をたいそう驚かせたのだ。天性の見鬼の才をもっていた勇馬はすぐに伏見稲荷に引き取られた。
修行を積むこと十数年、宮司として神事に関わる事はできても悪霊調伏はやはり僧や陰陽師の方が信頼は厚い。勇馬は一度も調伏に関わったことはなかった。
真百合にああ言ってしまったのは稲荷神社宮司としての慢心と、霊場であると叱責されるまでただの岩屋と思っていた自身の至らなさを指摘されたように感じたからだった。
だが、待てど暮らせどそれらしい霊気はやはり感じないし、逢魔が刻、黄昏時になってもそれらしい悪霊の姿は一向に見えない。
(封印されているうちに死んだのだろうか・・・)
真茱萸ノロと戦って力尽きた末、祀られたと聞いていた。
死しても律儀に約束事を守る神の話も珍しくない。そう考えるとホッとして力が抜けた。
張り詰めていた緊張が解けると、それまで気にならなかった風に乗って聞こえてくる歌や楽器の音が聞こえてきた。
暁やなゆい ヨー
如何うそうずぃめしぇが ヨー
別るさみ ヨー
とぅめばうみ思蔵
袖ぬ涙 ヨー
三線(サンシン)の深い音色に合わせて哀愁の篭った深みのある声が心地よく耳に響く。
琉球の音楽は『節』と呼ばれる人の想いを載せた歌が主流だ。明朗な歌い方ではなく、感情を込めた歌い方ができることが求められ、歌詞や旋律によって声の響きも微妙に変わるため見事に歌いこなすのは難しい。
しかし勇馬の耳に届いたこの『暁節』のなんと見事なことか。
深く渋みのある声なのになんとも言えない心地よい余韻が篭っている。情感豊かに込められた歌声は聴くものにその歌の情景を思い起こさる響きがあった。
サンシンの音色も負けていない。水面に広がる波紋のように静かだが一音一音がしっかりとした存在感を持っていた。
友人の宮司仲間の比古(ピコ)が琉球に来た初日に安いサンシンを買ってきたが、音色はまるで比べ物にならない。深く澄み切った音色なのに奥行きがある響きは蛇皮のサンシンしか持ち得ない響きだった。
本物の音色と歌に勇馬はウットリと目を瞑る。目を瞑ると音色と歌声はまるで自分の側で奏でられているかのように聞こえてなんとも贅沢な気分にさせた。
岩屋の壁に身を預けて勇馬は音に聞き惚れ、歌が終わると同時にそのまま深い眠りについた。
『-・・・』
サンシンの音色が夜闇に溶けるように御嶽に響き渡った。
いつの間にいたのか、御嶽の一番奥、例の青玉が安置されていた祭壇でサンシンを弾いていた男は少し離れた場所で眠っている勇馬に視線を投げた。
見るものがいたらぞっとするほど妖艶な男だった。
結い上げた髪は簪で十字に留めあげているのは琉球の男性の髪結い方だが、男の髪はまるでジュリ(遊女)の様に長い。留めきれず溢れた髪はスラリとした長身にまとわりつくように流れている。
男の着ている群青色の朝衣は蛇皮の様に不思議な光沢を放っていて、動く度に群青、蒼、碧と色を絶妙に変える。それすらもその容貌の前には霞んでしまう。抜けるように白い肌に整った目鼻立ちは美人が多い琉球人の中であってさえずば抜けている。何よりも美しいのはその目だ。
海の色を繰り抜いて目に埋めたとしか思えない澄んだ青い目は眠っている勇馬を静かに映し出していた。
男は勇馬に近寄ると、岩壁一面に貼り付けられた魔除け札に気がついて怪訝な表情を浮かべた。
どうやら札のようだが、それにしてはやけに力が弱い。人が持って心の拠り所にする分にはそれなりの効力を持つのだろうが、土地の神の力が借りられない以上、意味なく貼り付けてもなんの効果もない。
海の向こうの大和(日本)の神の札らしいが、信仰が弱まっているのか力はかなり薄かった。いや、それ以前に、札自身にもそれほど力は込められていない。余計な雑念や汚れに触れて、札に書かれた神の名に込められた力だけでは神の力も存分に発揮することはない。
神に捧げ奉り、神がそれに降りて力を宿すことで初めて意味を持つ。
あまりに粗末な札に男は初めて笑みをこぼした。
そして、寝入っている勇馬の肢体を舐め回すようにじっくりと見やる。
自分の懐近くにやってきてあまつさえ無防備に下半身を露わにしたまだ幼い子。まだ女を知らないであろう若々しい体はなんとも官能的で旨そうだった。
ぺろりと舌なめずりした男の舌が唇を濡らす。
わずかに覗かせた細く先別れしたそれは紛れも無く、蛇の舌だった。